告別



副社長が所在なさげにデスクエリアを彷徨いている。ふと目が合う。ふるふると手を振る。どうやら手招きをしているらしい。

「ご用でしょうか」
「贈答曲の選曲をしてほしい」
「は?」

40年以上にわたって貢献され、代表を務め、退任される方へ贈る曲だそうだ。その方はご自分で「私を何らかのかたちで表現した、もしくは関係した曲を贈って欲しい」と要望されたという。退任記念講演まであと3日。それまでに決めてしまわなければならない。他に情報はないのだろうか。

「彼は野球が大好きなので、他の部署では野球チームの応援歌を贈るそうだ。同僚のA氏は彼との思い出の歌を、と言っていたな

なるほど、「趣味」「思い出」という要素はすでに使われている。余計に範囲が狭まった。私の音楽の趣味は一部に偏っており、万人受けするものは少ない。しかし恩を受けた方への贈り物ならばと引き受けた。さっそく自宅に戻り、音源をひっくり返す。いくつかの候補をあげ、絞り、また増やし、聴き返す。気がつけば夜が明けていた。次の日、候補曲を持参し、副社長に聴いていただく。1曲目はボツ。2曲目もダメ。3曲目は・・・。とうとう最後の曲になった。

「私はこの曲が一番好きなのですが、万人受けしないかと・・・」
「・・・これで良い」

選ばれたのはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲のピアノソナタ第26番「告別」。Beethoven Sonata N° 26 'Les Adieux' Daniel Barenboim

ベートーヴェンのパトロンであり、良き友人、理解者でもあったルドルフ大公との別れに捧げられ、3つの楽章にて、それぞれ「別離」「不在」「再会」というストーリーが表現されている。このピアノソナタには、ベートーヴェン自身にも特別な想いがあったといわれ、自身が命名した ”Lebewohl"というドイツ語に、この「別れ」が決して「再会」を約束したものではないことを読みとることができる。この曲を出版したブライトコプフ・ウント・ヘルテル社が、軽率にもフランス語で“Les Adieux”と標題をつけたことに対して、「ドイツ語の ”lebewohl”(告別)は、フランス語の “les adieux”(告別)とは全く違うものである。前者は心から愛する人にだけ使う言葉であり、後者は集まった聴衆全体に対して述べる言葉だからである」と手紙で抗議したという逸話が残っている。

退任記念講演のパーティにて、40年という長い間貢献してくださったことに対しての感謝と惜別、そして再会を願う想いを託して、この曲をお贈りした。彼はすっと椅子から立ち上がり、我々に向かって深々と一礼した。(urikura)