碧の広間



大気汚染で霞んだ空にオレンジ色の大きな太陽を臨みながら、派手な渋滞、引っ切りなしに響く警笛による騒音、極彩色のサリーを纏った女性の行く人混みなどを車内から眺めつつ、遠慮がちに尋ねてみる。

「旧市街へ行ってみたいのですが」

「良いですよ」

訪れたのはインド、デリー。私にとって今回の出張が初めての訪問となる。とはいえ作業のための一週間といった短い日程で何ができるかといえば、せいぜい宿泊場所と仕事場を往復する車内から街角を眺める程度で、地元の文化に触れる機会は驚くほど少ない。だから帰りの車内でちょっとしたわがままを言ってみたのだ。危険だと難色を示すひとが多いと伺っていたが、お世話になったクライアントのご担当は快く頷いてくれた。

車を降りて旧市街を歩く。人混みをかきわけるように行く両側は、極彩色の染織布、手芸品などで埋め尽くされている。

「ちょっと脇へ入りましょうか」

ひとりであれば入るのを躊躇するような薄暗い裏路地へと入っていく。そのうち真っ暗になって足下もおぼつかない。これは逸れたら洒落にならないぞと思いつつ、必死について行くと、ふと見上げた先にぽっかりと白い中窓が浮いている。ちょうど背伸びをすれば覗けそうな高さだ。枠も何もはまっていない。白いと思ったのは霞んだ空がそこから見え、光が射していたからだった。その先に何があるのだろう。ひょいと首から上だけを覗かせる。

一瞬、水の中に顔を差し入れたような感覚に襲われた。眼が逆光に慣れるまでしばし待つ。朽ち行く壁に塗られた碧が白い光の中で立上がる。果たしてそこには「碧の広間」が広がっていたのだった。もとは何か大きな建築の一部だったのだろうか、ところどころに微細かつ優美な装飾が施されている。いまは集合住宅の一部としてとり込まれ、ところどころに洗濯したのであろう織布が吊るされている。喧噪のなかの、裏路地の一角に、こんなにも静謐な空間があろうとは想像だにせず、呆気にとられ、ここに暫く留まりたいとさえ思った。


ふと我に返る。先を見やるとすでに案内人の影はなく、薄暗い通路が延々と続いている。名残惜しい気持ちを懸命にこらえてその場を後にした。インドに来た甲斐があった、帰りにはターコイズを土産に買って帰ろう、そんなことを考えながら帰りの車内に乗り込んだ。(urikura)