Rubber Duck Project



アムステルダム2008「座礁するアヒル」
アムステルダム2008「つぶれるアヒル」
大阪2009「もっとでっかいアヒル


Rubber Duck Project をご存じだろうか。オランダ人アーティストの Florentijn Hofman による大きなアヒルをモチーフとした芸術作品であり、本日より大阪、中之島ばら園・ばらぞの橋南側水面に、東日本大震災の復興支援も目的のひとつとして展示されているという。私がこのアヒルに初めて出会ったのは2008年のアムステルダムだった。以下、当時余所に寄せた記事を改題、一部編集してご紹介したい。


あれは2008年の年明け早々だったと思う。
昼食をとろうと定食屋へ向かう車中から見えたその光景におもわず吹き出した。アムステルダムの都市高速道路環状線(A10)から国際展示場(RAI)へ抜けていく右折ランプの内側に人口の溜め池がある。そこに浮かんでいたのは空気を入れて膨らませた高さ5mはあろうかという大きな「アヒルちゃん」であった。
「これはいったい何だろう?」
はじめは不思議に思った。だれかのイタズラか。それにしては大掛かりだ。しかも場所は市が管理する公共施設内である。もしそれが誰かのイタズラであるのならばすぐに撤去されるはず。しかし彼はそれから約一ヶ月もの間、その池でたゆたっていた。ときに風によって向きを変え、岸辺に座礁してみたり、空気が抜けて潰れてみたりもした。だが彼はいつのまにか復活し、何事もなかったかのようにまた浮かんでいた。
そして気がついた。なるほど、これは誰かの作品なのだ。市が出資したパブリックアートなのだろう。アムステルダムの冬は暗く、長く、そして厳しい。曇天と小雨の悪天候が何日も続く。一日の最高気温が零下ということもざらだ。そうなればどうしても心持ちが暗くなりがちなのだが、そんなおり、殺風景な場所で出くわしたこのファニーな物体はたしかに不思議な暖かい情動をこころのなかに呼び覚ました。
このような試みはオランダでは決して珍しくはない。これに公共の利益として税金を投入する市とそれを享受する市民の理解のあり方に、当時はいたく感心したことを覚えている。
あとで知ったことだがこのアヒルちゃん、オランダ人アーティストの Florentijn Hofman が手掛けたもので、その後はアムステルダムのみならず世界中の都市をまわっているのだという。Hofman はこの作品について、自身のホームページで以下のように説明している。

"The Rubber Duck knows no frontiers, it doesn't discriminate people and doesn't have a political connotation. The friendly, floating Rubber Duck has healing properties: it can relieve mondial tensions as well as define them. The rubber duck is soft, friendly and suitable for all ages!"


もしデザインを「カスタマーにとっての新たな経験」として捉えるのならば、アートとデザインの領域は限りなく接近することになる。アートは日常のリアリティに異質なものを打ち込むことによって人々の意識に新たな感覚を生み、それがリアリティを転回させるという経験をつくりだす。一方、デザインはその日常のリアリティの連関にあくまで寄り添い、個々の意識の経験からある種の共通項を取り出しつつ、それをかたちにすることで新たな経験を生み出す。どちらもその方法論や立ち位置、目指すべきものは異なるが、それを享受する者にとって「新たな経験を生む」ということでは同じようなものなのだ。
「デザインはアートではない」といった言葉をよくきくが、それの意味するところは物的・機能的な実現を前提とするデザインに対し、アートは必ずしもそのような制約を受ける訳ではなく、デザインはアートほど奔放になれるものではないといった戒めなのだろう。ただしそれはあくまで how(どのように)を前提にしているメソドロジーであって、経験を生み出すうえでの手法のことでしかない。では What (なにを、どんな)を前提にしたとき、「デザインはアートではない」と言いきることができるだろうか。


アムステルダムで見かけたおり、となりにいた同僚は「なにこれ!?これだからオランダ人のセンスは理解できない!」とたいそうご立腹だったが、そのひとにとってこの作品は素敵な経験を与えてくれるものではなかったらしい。さて、大阪の人々はどのような「経験」をこの作品から得ているのだろう。(urikura)