
「ロボットは、漫画や実写の映画にも登場しますけど(中略)アニメにしたとき初めてメインストリームになり得るんです。アニメーションではロボットが最大の武器なんですよ。」谷口伍郎
(日経ビジネスオンライン「アニメから見る時代の欲望」2008年9月19日の記事より抜粋)
オランダでデザイナーの採用活動をしていたとき、あるオランダ人の学生が卒業論文を持ち込んだ。テーマは日本のデザインについてだったが、そのなかの研究対象として「機動戦士ガンダム」が出てくる。そして彼はガンダムは日本の文化だと熱っぽく豪語したのだ。当時は彼が何を言わんとしているのかよく理解できなかったものだが、今ならなんとなく共感してあげられそうだ。
なにやら巷では久しくガンダム・ブームらしい。私はガンダム世代ではないのでその魅力を十分に理解していないのだが、そもそも子供の頃から巨大ロボットというモチーフが不思議でならなかった。当時のアニメーションにはほとんど全てに巨大ロボットが出てきていたが、なぜ猫も杓子も巨大ロボットなのか、可笑しいではないか、他にやりようはないのか、そんなふうに思っていた。ところがある日、あるアニメーション監督が語っているインタビュー記事を読んで、はたと理解するにいたる。
「ロボットは虚構でもあり、現実でもあるということですかね。(中略)情報の整理がとてもしやすい記号なんです。人間の欲求を具現化したモチーフを、絵で単純化して強調させる。それによって発生する良さってあるじゃないですか。」(同上より引用)
なるほど、たしかにそうだ。人間誰しも強く大きなものに対する憧憬や畏怖、そしてそういったものの持つ万能感への願望を本能的に抱いている。それを仮想的に描き出してみせる巨大ロボットというモチーフは、人の欲求の表徴として機能しているとすれば、まさに現代における神や仏、日本で言うところの仏像とさえ言えてしまう仮想的な「器」なのだ。おそらくそのようなことにいち早く気づき、スペースオペラ的なリアリティを導入しつつ、最初に物語として展開してみせたのがガンダムなのだろう。その後にその類型が現れ、世相とともに主題が変わっていきつつも器としての巨大ロボットが採用されてきたのも頷ける。ハイデガーは道具というものは人間にとってア・プリオリ(超越論的)なものだと言ったが、まさに巨大ロボットとは日本人にとってひとつのア・プリオリな道具といえるのかもしれない。そしてそのあり方が「器」というのがまた実に日本的ではないか。なぜならそれは、ロラン・バルトの言うところの「表徴の帝国」における記号としての「器」であったのだから。(urikura)
※ア・プリオリ:経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念。認識論において用いられる難解な言葉。具体的な意は、「私はこのことをアプリオリに知っている」は「私はこのことを知っているが、経験を通じて知ったのではない」と言うような具合である。アプリオリの意は非常に複雑であり、わかりにくいと言われる。(wikipediaより、部分を抜粋して転載)
※「表徴の帝国」:フランスの哲学者ロラン・バルトが独自の日本論を記した著書。1966年、バルトはフランスの文化使節の一員として日本を訪れ、そのときの印象を記号論の立場から同書にまとめ、1970年に発表した。同書によれば、西洋が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」である。ヨーロッパの精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在する。そしてそのような記号は、意味から切り離されることにより、独自の輝きを持つものとなるという。(wikipediaより、部分を抜粋して転載)